隣りの王様

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明治天皇すり替え説2

明治天皇すり替え説
(これが本当ならば、第二次大戦時の”特攻隊”で「天皇陛下万歳!」と叫びながら敵艦に突撃自爆していった(させられた)若者は、いったいなんだったんだ、といった感じだ。
しかしこれらは昔の歴史上の仮説であり、現皇室の価値をなんら落とすものではないことを付記しておきます。)


”現場”にこそ事件を知るキーが隠されている、といったところで、
長州は山口県の郷土史研究者達による調査があるらしい。
本職は弁護士だったり会社経営者だったりとのことで、アカデミックな利害関係はあまりなさそうなので、意外に注目にあたいする。

★鹿島昇 氏
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kashimashikan/matushigenokashimaron1.html

(一部抜粋)
・・・・・
≪孝明天皇から明治天皇へと路線が一八○度展開し、明治維新が成立している≫

 やがて、一〇月になると薩長両藩に倒幕の密勅が下るのだが、不思議なことに、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還を上奏したのは、この倒幕の密勅が下った直後のことであった(一〇月一四日)。その大政奉還を受けて、一二月に王政復古の大号令が発せられるのだが、その最初の場所は、なんと大室寅之祐の生家のすぐそばの高松八幡宮であった(ここに、三条実美(さねとみ))も同席している)。

 そしてその翌月、すなわち一八六八(慶応四=明治元)年一月、鳥羽・伏見で、幕府軍二万と薩長軍四千が戦うが、錦の御旗を前に幕府軍は戦意を喪失して敗走。それが二二日であり、その二日後の一五日に、鹿島説によれば大室寅之祐が明治天皇として、正式に京都御所に迎え入れられたということになっている。

 睦仁(むつひと)親王が即位をして新天皇となったのは、一八六七年一月九日である。ところがいつの間にか人物がすり替わり、そのちょうど一年後の一八六八年一月一五日に、長州藩が匿っていた南朝末蕎の大室寅之祐が、明治天皇となったというのである。 そして、この一年のあいだに、孝明天皇路線(幕府を助ける佐幕派、公武合体、撰夷・会津藩主を信任)から、明治天皇路線(幕府を倒した倒幕派、反公武合体、開国、会津藩は朝敵)へと政策を一八○度展開し、明治維新が成立しているというのである。

≪睦仁親王と明治天皇は、似ていない≫

 明治天皇のすり替えについては、一八○度の政策展開という「状況証拠」のほかに、「物的証拠」にあたるものもある。まずは、「あばた」である。睦仁親王は、種痘を受けていて天然痘には罹っていなかったので、あばたはない。ところが明治天皇(大室寅之祐)は二歳のときに天然痘に罹り、口の周りに「あばた」が残った。立派な口髭は、そのあばたを隠すためのものであり、写真に撮られるのを嫌った。「御真影」が肖像画であるのは、そのためである。

 第二に、禁門の変のとき、二二歳であった睦仁親王は、砲声と女官たちの悲鳴を聞いて失神したとあり、ひ弱な虚弱体質であった。明治天皇(大室寅之祐)は、二四貫(約九〇キロ)の巨漢で、側近と相撲をとっては投げ飛ばしていた。

 第三に、即位前の睦仁親王に乗馬の記録はない。馬に乗れなかったようである。ところが明治天皇(大室寅之祐)は威風堂々、馬上から閲兵し、大号令をかけている。

 第四に、睦仁親王は右利きだが、明治天皇(大室寅之祐)は左利きである。当時、左利きは
嫌がられていたため、天皇が左利きというのは、いかにもヘンである。しかし、長州藩に匿われていた南朝の末商ならば、それはありうる。 ・・・

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中丸薫氏




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明治天皇とフルベッキ写真は検証が必要

 
★日本近現代史最大のミステリーは検証が必要。 ~明治天皇すり替え説~


僕は、鬼塚英昭さんか太田龍さんあたりの本か何かで知ったんですが、
これはネット検索すればいくらでも出てくるし、
マニアの陰謀論者だったら知らない人はいない
いわゆる「フルベッキ写真」。

なんで、当時の(明治)天皇までが、武士の格好で、
しかも明治維新のそれぞれ敵対関係の著名な志士たちが、
なんでみんなそろって集合写真なんか撮っているのか?

写真の信ぴょう性まで含めて、顔の骨格等、
利害関係のない第三者による科学的な検証は必要と思われます。
(しかしこれらは昔の歴史上の仮説であり、現皇室の価値をなんら落とすものではないことを付記しておきます。)


フルベッキ写真
下段中央あたり「大室寅之佑」

明治天皇
明治天皇とフルベッキ写真

フルベッキ写真2





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